沖縄紀行と案内・28

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沖縄紀行(28)那覇 「首里城」(2)



曲壁A

曲壁B
首里城・曲線の城壁2枚(世界遺産部分)

正殿儀式
冊封使の儀式(模型)



首里城、琉球そして中国との関係・・、

2000年12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、日本で11番目の世界遺産・文化遺産に登録されたことは既に度々述べてきた。

この首里城は中世の1400年代には建てられた琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の(グスク)であった。
南王の尚巴志(在位1421年 〜 1439年)が三山を統一し、中山に琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。
1453年、「志魯・布里(しろ・ふり)の乱」により焼失し、その後再建された。 
「志魯・布里の乱」とは、琉球王朝の第五代尚金福の死後、王位をめぐって世子・志魯と弟・布里が起こした争いで、この乱で当時の首里城は焼失している。

その後、城は1660年、1709年に火災、再建と繰り返し、1945年アメリカ軍の侵攻により殆どの部分が破壊され、更に、戦後の琉球大学建設により完全に破壊された。      戦前までは正殿などが国宝であった。
近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認され、グスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられるという。

1970年代になると城を再興しようという運動もはじまり、1992年に首里城公園(第一期開園部分)が開園し、そして他の城跡とともに、この一帯も世界遺産に指定されている。
世界遺産は、2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として登録されたが、登録は「首里城跡」のみであり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。


琉球の「三山時代」についても先に記したが・・、

現在の首里城の形となるものは15世紀の初め、三山時代を統一した尚巴志(しょうはし)によって造られた。 
琉球王の姓となる「尚」(尚巴志)は、中国皇帝から頂戴したもので、琉球全体の王として中国に認められた人物である。

尚巴志は、臣下の中国人に中国の王宮・紫禁城の建築法を学ばせて首里城を建造したといわれ、即ち「」とは、天地をつかさどる天帝が住む宮殿、「」とは人民が近づくのを禁じることを意味するという。 

首里城の正殿は紫禁城の太和殿を手本にして作られ、首里城は琉球・紫禁城ともよばれていたともいう。
国内でもそうだが国を統一した英雄は、自分の力を誇示するため巨大なお城や寺院を造った。
「尚巴志」もまた首里城を造ることによって、誰が今世の琉球の主であるかを国内外に示し中国、朝鮮国、日本、東南アジアなどの諸外国に対して、首里城の持ち主が琉球国の代表者であることを明らかにしようとした。


琉球沖縄の城(グスク)について・・、

沖縄では「」と書いて「グスク」と呼ぶことがある。 
グスクとは沖縄各地にある石積みの遺跡のことで、城塞跡や祭祀跡などいろいろいわれている。 
ただ、現存するグスクの多くは、石積みや城壁に象徴される中で、古い時代の琉球を宿している。
これら数多いグスクは何時頃、誰によって何の目的で造られたか・・?、そのグスクの歴史は未だにはっきりしない部分もあると言われる。

琉球思想では、神を祭る神聖な場所とされる岩場なども「城」(グスク)としての意味合いがあり、単なる戦いのための建物ではないともいう。
つまり、本土の城のように権力の象徴や戦争のための砦では必ずしもない。
日本国内の城は戦のために造られ大方の場合は町の中心にあるが、沖縄の城・グスクは首里城をはじめ小高い丘の上につくられているのが普通である。 
それに沖縄のグスクは復元されたのは首里城のみで、それ以外は建物もなく、ただ石積みだけが残っているだけである。 

本土の場合は、明治政府により多くの城はつぶされたのだが沖縄の城はそうではなく、群雄割拠の三山時代に築城されたものが、南山出身の尚巴志による琉球統一により、琉球王国の手によって各地のグスクは整理されていき、旧勢力のものは廃墟したといわれる。


琉球のグスクと本土の城と比べると、大きな違いが三つあるという。
一つめは、グスクそれ自体が聖なる地域であり、王城であっても必ず地域の神様をまつる「イビ」という拝所、場所がある。

二つめは、琉球人は元来武器を持たず戦いを好まなかったといい、宮は政治の中心ではあっても、武力の中心ではなかった。
そのため、グスクは海上からよく見える丘の上にあることで、これは島国・琉球が統一前から海外貿易が盛んで、武力を使うよりは人材交流などで対外関係を良好に保っていたことの現れでもある。 しかし、今で言う自衛力はもっていた。

三つ目は、日本の城が直線の石垣つくりに対して、グスクの石垣は曲線で作られている。
高い丘の上に吹きつける台風の風力を分散させるために、抵抗が大きい直線より風を吹き分ける曲線を選んだともいわれる。 
曲線は美しくみせるためではなく、自然とのたたかいの結果に生まれた「チナーンチュ」の知恵だったのである。気がつけば、先般訪れた今帰仁城(なきじん)やこの首里城、そして、本島中部の勝連半島にある勝連城(かつれん)の城壁はうねる様な曲線で覆われているのが判る。


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そして、当時の琉球と中国との関係であるが・・、

14世紀半、琉球は中国の皇帝から琉球国王として認めてもらい、冊封国(さくほうこく:皇帝、天子から承認された国)として中国と交流をはじめる。
当時、モンゴル、ベトナム、タイ、朝鮮国、日本、琉球国などアジアの国々も中国の冊封体制のもとで、リーダーの中国に貢ぎ物をとどける「朝貢貿易」をおこなっていたとする。

その朝貢品にたいして中国は、その数倍も価値のある陶器、鉄器や高級な絹織物などを「下賜品」として冊封国に授けたようである。 
琉球国はその他にも、200名乗りの「進貢船(しんこうせん)」と呼ばれた中国の大船を毎年のように与えられたといい、特に、北京における琉球王国は他の外国が禁止されている商いも許され、さらに、明王朝が催す公式行事の時にも、琉球の使いは上座にすわる扱いを受けていたという。

琉球の新しい国王の即位式である「冊封の儀式」には、明王朝が冊封使(さくほうし)として琉球に遣わすときは3〜500人にものぼる大勢の使節団を派遣したという。 しかも大臣クラスが出席し、儀式が終わった後も半年ほど滞在し、その間に中国の文化、文明を琉球に伝えたといわれる。

日本は中国の25分の1、琉球は中国の4175分の1の面積しかなく、本来なら忽ちにして属国になるのが普通であったが・・?、
なぜ、こんな小国・琉球に命をかけてまで冊封使達はやって来たのか、それは琉球を中国が必要としていたからといわれる。 
中国への貢ぎ物の中には必ず「硫黄」が含まれていたといい、中国では良質の硫黄がとれず琉球の硫黄は炭、硝石とまぜると火薬になり、火薬は戦乱の続く中国では最新兵器として皇帝が常に必要とする品であった。


首里城が中国の紫禁城に似せて造営され、何かの行事があるたびに首里城内において盛大な儀式が行われた。
その度に中国特使達を招待し、派遣された冊封使達は儀式が終わると直ぐ近くの「識名園」にて寛ぎ、この時、園内に設けられた「勧耕台」といわれる展望台では、九州並の巨大な島「大琉球」をイメージさせたと言われる。


1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。 
1930年代に大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼し、戦後の跡地は琉球大学のキャンパスとなった。 
その後、園比屋武御嶽石門や守礼門が復元され、更に、主城である「首里城」の復元が国家事業として決定するに及んで大学は移転し、着工後3年経った1992年に完成している。 
復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしているといわれる。

その後、2000年12月には首里城跡(新装の首里城正殿などは遺産ではない)が世界遺産に登録されている。


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