沖縄紀行と案内・22

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沖縄紀行(22)具志頭 「琉球原人:港川人」



日本原人か・・?、「港川人」はこの地で発見された・・!

次に、「おきなわワールド」に向かう。
国道は、山の端に沿って道ができているので、町並みに入ってもカーブの連続であるが、緑に覆われた快適なロードでもある。 
旧玉城村に入り、「奥武島」を眺めながら雄樋川の立派な大橋を渡ると、案内に従って右折することになる、「おきなわワールド」はもう近いはずである。

その前に、この辺りは具志頭(ぐしかみ)村の港川地区といって、冒頭でも記したが太古の原人といわれる「港川人」が発見された地域である。 
港川の石灰採石場跡にある旧石器時代の遺跡で、1967年〜1972年にかけて那覇の実業家だった大山盛保氏等によって港川石と呼ばれる石灰岩の内から約1万8000年前のものと推定される化石人骨が発見され、地名を取って「港川人」と名付けた。

国内で発見されている更新世(こうしんせい:地質時代の区分の一つで、180-160万年前から1万年前までの期間で、この時代の殆どは氷河時代であったといわれる。残りの年代から現代までが完新世ともいう。)の化石人骨の中でも保存状態に恵まれ、全体の形がよくわかるのは、港川人だけといわれる。

身長は約153〜155cmで体つきは全体的に小柄で腕は細めなのに対して手は大きく、腕力もかなり強かったようである。
頭骨は現代人よりもやや大きめで、頬骨が張り、鼻筋が高く、掘りの深い顔つきを持っている。
その身体的特徴から南方系で、広義のインドネシアなど東アジア海岸域の海洋集団に属していたという見解もみられる。

いずれにせよ「港川人」は、日本人のルーツを探るうえで重要な存在といい、「港川人」は、縄文人とほぼ同じ特徴をもっていることから、港川人が琉球列島から本土へ渡り、縄文人になった。 つまり日本人の祖先として現在のところ位置付けられている。 
しかし、琉球沖縄人は国内からの北方ルートも考えられていて、港川人が琉球の祖先になったかどうかは、まだ明らかにされてはいないともいう。


ところで、日本人の元祖については昔から南方系か、北方系かとの議論がある。 
或いは両方からやってきてお互いが融合し、1万年以上もの長い間で日本人の原型となる縄文人が形造られていた・・、と想像することも出来る・・?!。

数千年前に至った縄文期では日本は既に温暖化に入っており、縄文人は東西の文化、物資の交流が日本海を中心に行われていた事実もある。 
例えば、青森の「三内丸山遺跡」(縄文前期の約5500〜4000年前)から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ)が大量に発見されているという歴史的事実もある。
又、これは考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の大国主が「翡翠」を求めて、能登地方を巡りながら越後へ達しているのである。

日本では縄文時代から丸木舟が広範囲に使用されていた事実もあった。 
京都・舞鶴市の浦入(うらにゅう)遺跡からは、凡そ5300年前の縄文時代前期の丸木舟が出土している。

推定だが全長が8メートルで、出土地点が舞鶴湾に面していることから、外海航行用の丸木舟であることが想定されているという。 北海道・蝦夷でも東北との繋がりがあり、まして、琉球人が南方系とすると、これは海洋民族でもあり、本州との交流は易かったはずである。
こうして、一万年以上にも及ぶ永い永い縄文時代は北海道の北部地域から、琉球南方地域まで、ほぼ同一系の旧来の縄文人が出来上がっていたのではないかとも想像できるという・・?。


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だがしかしである、ここで時代と文明が一変するのである・・!、

これも神話の世界(日本の古事記、日本書記)では、出雲王朝(大国主)が「国譲り」という大革命が行われるのである。 

これは縄文人と弥生人の一大紛争であったのだが、現実的には紀元前3世紀から紀元7世紀まで大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が九州や出雲地方にやって来て、従来の出雲の民である縄文人を駆逐し、ないしは同化していったともいわれる。

具体的には、冒頭にも記したが神話時代の日本武尊(ヤマトタケル)が九州南部から東国まで遠征し、熊襲、蝦夷(何れも縄文人)を征伐する。
又、史実上の平安初期においては、かの「坂上田村麻呂」が東北の果てまで遠征に出かけて蝦夷を平定している。 
これらはいずれも「弥生文化の覇権」のためであって、云わば、武装した農業集団、稲作キャンペーン集団ともいえるのである。

このことは文化面は云うに及ばず、宗教面においても全国に一大革命を起こしたことになり、つまるところ旧来の日本人(縄文人)の姿から精神まで変えてしまったともされている。
このように2000年にわたる、集団で定住化された米が主食になる稲作農業が規定化された弥生人は、旧来の縄文人の姿、形まで変えてしまったことになると云えるのである。


ところが、この様な弥生文化の駆逐は北海道と沖縄には全く及ばなかったといわれる・・、

両地域とも本土と並立した「弥生時代」というのは存在しないと言われ、縄文時代の次の時代は、沖縄では「貝塚時代」(新石器時代)、東北北部から北海道では「続縄文時代」と呼ばれている。
琉球の新縄文時代は本土のそれよりも長く、平安の頃までが縄文様式の生活であったという。

本土が弥生時代を迎えていた頃、南西諸島の人々は、九州の人々と貿易を行っていたと見られるが、しかし琉球には弥生時代の特徴である稲作農耕は伝わらなかった。 
琉球の人々は縄文の文化を残す生活を続け、漁獲採集の時代、貝塚の時代が長く続いたのである。

なぜ水田農耕が伝わらなかったのか、という点については琉球人にとって動植物は神であり、「農耕」という行為を受け入れがたかったのではないかともいわれる。
そして平安後期の11世紀頃になってやっと、それまで入ってこなかった水田農耕や鉄器が仏教の布教とほぼ同時に琉球地方に伝わり、農耕生活が始まったとされている。

蝦夷・北海道においては更に極端で、明治になり人々の北海道開拓移民制度が確立されてから集団稲作営農というのが一般化してくるのである。 
江戸期までは“石高のない松前大名”とわれる松前藩は稲作が無いため、何万石という所謂、米石高の表示さえ出来なかったのであった。 
言いかえれば北海道も、画一的な弥生文化から免れることができ、アイヌとその文化という非稲作的要素を近代に到るまで残すことになった。 

従って、本州を跨ぐ遠く離れた蝦夷・北海道のアイヌと琉球・沖縄の琉球人は共通した古代の日本民族の原型をいまでも見ることができるのである。


昨今、琉球沖縄人が芸能やスポーツで大活躍しているようだが、男女おしなべて身体的特徴が内地人と比して少々なりとも異なって見えるのは小生のみではあるまい・・!。
琉球人は、背丈は小ぶりで眉毛などが毛深く、色黒、顔が角ばって彫りが深い、ガッシリしてることなどがあげられる。 
一方、我等内地人は黄白色で、顔形もうりざね顔で全体にノペッとし、その違いが一目でわかる。
北に目を転じてみると、アイヌと呼ばれた人々もまた、沖縄人とよく似た身体的特徴があると言わる。

つまり琉球人=アイヌ人=縄文人ということになるが・・?。


沖縄南部で発見された「港川人」は、縄文以前の石器時代の人型といわれ、それは日本における1万年もの縄文時代の縄文人を創り上げた、日本人の原人であるともいわれる由縁である。

アフリカで、サルとヒトとが別れてから現代人に至るまで、凡そ500万年〜700万年にも及ぶとされている。 
この壮大な人類進化の過程で、東アジアで唯一といわれる全身の骨格が残る1万8千年前頃の「港川人」をはじめ、更に琉球諸島では3万2千年前の日本最古の人類化石といわれる「山下町第一洞穴」(那覇市山下町)や下地原洞穴(久米島具志川村)、ピンザアブ(宮古島上野村で発見)などから、更新世に遡ると考えられる人骨等が出土しているという。

琉球沖縄からは、世界的にも注目される貴重な人類化石が発見されているのである。

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