「沖縄旅行と案内」11

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【 漫湖 】

一先ず国道329号線へ出て、首里城方面を目指した。
道路左手に大きな湖が見えてきて、地図を見ると那覇港から深く入りこんだ「入り江」の様でもある。 地図には「漫湖」としてあり、標識にも「漫湖公園」などとしてあった。
小生は一瞬、「うなぎこ」と読んで・・、 湖には昔から大きな「うなぎ」でもいる名所なのかな・・?などと想像したが・・、「うなぎ」は「鰻」であって字が異なる。
本当の読みは「まんこ」というらしい・・!!、女性にはチョット気が引ける呼称であろうか・・?。

実は、3年前ぐらいに或る女性が、この名称について変更を希望する内容で新聞社に投書し、其の投書が記事になって沖縄市民の物議を起こした事例があった。
それは「沖縄タイムス」の夕刊に掲載された投書で、その内容の概略は・・、

『 沖縄に来て丸15年、ずーっと気になって仕方ないことがあります。それは「漫湖」「漫湖公園」の読み方です。実はこの発音は、内地では女性の性的な身体の部分を指す言葉なのです。 (中略) そのうち慣れるかも…と思って生活してきましたが、いまだにどうしてもなじめません。というか、この公園の名を1度も口にしたこともありません。ニュースで流れるたびに苦痛すら感じています。 (中略) 由来のある名前なのでしょうが、名前を変えてもらえないかしら、とすら思ってしまいます。 (中略) こんなこと気にしてるの、私だけでしょうか・・? 』 こんな具合である。

これに対して市民からは反論と云うべき意見が続出したという・・、その内容の一部・・、
『 郷に入りては郷に従え・・!。 漫湖のある沖縄によその土地からわざわざ来たのは自分の方なのに、どうして名前を変えさせようという発想になるのか不思議だ。 』

『マンコは東京地方の方言でしょう。沖縄まで来て関東の方言に縛られているのは変ですね。性的なことにとらわれ過ぎているのと違いますか。関東中心主義は止めにしたいですね。』

『これは酷すぎる話ですね。  生活のためとか、家族の仕事のためなどという「きわめて自分勝手な理由」で引っ越してきたのであれば、遠慮すべきは自分であると認識すべきですね。』

『沖縄旅行中にラジオを聴いていたら、女性キャスターが連発して言うから楽しかったですよ。』

『かつて日産ホーミーという車がありましたが、沖縄ではアソコの意味なのでさっぱり売れず、同じスタイル日産キャラバンが売られていたそうです。』

縄文的琉球人の大らかさと、繊細な弥生的内知人の相違が表れていて、無責任な面白さを感じました。
因みに、「漫湖」はラムサール条約にも登録されている湿地帯で、近くの小学生などが写生に訪れるほど、都市部の中にあって野鳥が集まってくる那覇市のオアシスのような存在である。
全国的にもいろいろな意味で知られる名称ではあるが、沖縄で「女性の性的な身体の部分」は、このように言わないのでテレビでもラジオでも名前が堂々と放送されているという。



  【 世界遺産・「識名園」 】
識名園へ向かっている・・。
首里へ向かう国道の左側で、比較的判り易いところに在った。
夕刻も迫ってきていて、既に訪れる人も無く我等が最後の訪問者になったようである。 
琉球風の洒落た事務所兼入り口があり、その横に真新しい世界遺産の碑があった。



入口門から直ぐに、何故か通用門や正門というのが在った。 当然、復元されてはいるだろうが往年の入場門なのであろう・・。 正門は、王族一家や位のある人の正式の門だとか・・。
園内は熱帯性の植物であろう、先ず鬱蒼とした照葉樹林に覆われている。 それでなくとも夕刻迫る時間帯でもあり、辺りは薄暗くさえ感じる。
道中、古風であるが立派に石畳が敷かれてあって歩きやすいが、細いハイヒールの女性には如何かな・・?などと、変に気を回してしまうが・・。 両脇の石垣もいい雰囲気をだしている。
間もなく石組みで造られた「育徳泉」という湧き水の出る所へ出た。
清冽な水をたくわえて池の水源の一つにもなっているらしい、小生は気が付かなかったが、なんでも「オキナワイモリ」がせいそくしているらしい・・?。 石組みは、琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」という、巧みな曲線が美観を呈している。
「シマチスジノリ」とかいう淡水藻の発生地として、国の天然記念物にも指定されているという。


 『育徳泉』    

易曰山下出泉蒙

君子以果行育徳

中山王新闢南苑有泉

出焉顔之曰育徳庶幾

王之進徳其猶泉之日

出乎 趙文楷

井戸口の上には二つの碑が建てられている。
そのひとつ、向かって右側が「育徳泉」の碑である

『意訳』

易の蒙卦に「山下に出泉あるは蒙なり。君子もって行を果たし徳を育う」との文言がある。
中山王はもてなしの場として、新たに南苑をおひらきになられた。
そこにある泉からは滾々と絶え間なく清流がおこっている。
ここをその易の一節から採って「育徳(泉)」と名付けよう。
出泉の細流から遂にとうとうと流れる大河へと至るがごとく、
徳を備えた立派な君子となられるよう、日々精進されますように。
                           趙 文楷



薄暗い樹林帯から、広大な明るい庭園に出た。
左手に琉球特有の赤瓦を載せた木造の建物が現れた。 表に面する箇所は、戸や扉など全てが取り払われて、開放感溢れる趣である。「御殿」・(ごてん)と書いているが、沖縄・琉球風に読むと「う・どぅん」と称するらしい。

建物は閲覧自由になっていて静々と入室し、中央辺りで庭園を伺うと石橋や六角道を配した輝くような大きな池が一望の眼前にあった。
建物の面積は約160坪で、「冊封使」を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶の間、前の一番座、前の二番座など、15もの部屋があった。
冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と名目的な君臣関係を結ぶことで・・、中国皇帝の勅を奉じて周辺諸国に使わす使節のことを「冊封使」(さきほうし)というらしい。

「識名園」の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした「回遊式庭園」になっている。
回遊式庭園は、平安期の貴族が園遊会などを催すのが主であったが、江戸時代には大名によって造営された大名庭園として発達した形式であり、現代の日本庭園の集大成とも位置づけられる。
大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現し、園路の所々に休憩所、展望所として茶亭、東屋などが設けらているのが普通である。

「識名園」の池に浮ぶ島には、中国風東屋の六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲を琉球石灰岩で積みまわすなど、琉球独特の工夫が見られる。

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造園は、琉球の第二尚氏王朝時代の尚穆(しょうぼくおう:在位第14代国王)の時代に始まったと言われるが定かではないとも・・、1799年頃に完成したという。 首里城の南にあたるので「南苑」とも呼ばれ、沖縄隋一の名園といわれる。 
王族の保養の場としてだけでなく、冊封使や実質的に琉球を支配をした薩摩の役人たちを接待する場としても使われ、交流によって琉球に与えた文化的影響は大きかったとされる。


「御殿」から導かれるように、回遊池を挟んだ反対側に小高い丘がある。
園内に設けられた「勧耕台」といわれる展望台であるが、この展望台は見る者によって一種錯覚をさせるように造られているともいう。 
海が全く見えない形で、如何にも広大な陸地が存在するかの如く装い、如何にも農耕の豊かさを表現し、併せて国を富ませよとの尚王家の意向を示すものともいう。 そかし、これは中国側の誤解に基づく「大琉球」のイメージを維持する為のトリックでもあったともいう。 それ故に中国は、九州並の巨大な島「大琉球」を想定していたともいわれる。


「勧耕台」から「大琉球」の展望・・?


琉球王家は識名園以外にも17世紀の後半に完成した「御茶屋御殿」(うちゃやうどぅん)と呼ばれる別荘を持っており、こちらは首里城の東に位置していたため「東苑」と呼ばれていた。

「識名園」もまた太平洋戦争・沖縄戦で大きな被害を受けたが、1975年より復興と整備が進められ、ようやく現在のような姿を取り戻しましたという。 
復興後すぐの1976年には国の名勝になり、2000年には特別名勝になった。 そして2000年12月2日にはユネスコの「世界遺産」にも登録された。

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