「沖縄旅行と案内」15

沖縄紀行Part15:(琉球・沖縄の歴史))      沖縄紀行TOP:(沖縄概要、目次)
 沖縄概要  沖縄歴史  港川人  首里城(琉球と中国の関係)  沖縄のサンゴ  那覇空港  
日本一周記   マイ・ホームページ   マイ・ブログ(日本周遊)   国内世界遺産・鎌倉・湘南 

【本文関連情報



【先史時代】
先ず琉球、日本人の祖先と言われる「港川人」が、琉球列島に住んでいたという。
港川人(みなとがわじん)とは、凡そ1万7000年前に生存していたとされる人類で、1967年沖縄県具志頭村(現在の八重瀬町字長毛)港川の海岸で人骨が発見された。
この人骨は約1万7000年から8000年頃ものだと推定され、日本人のルーツとされ、発見された地域名をとって「港川人」と名付けている。 
沖縄の最も古い土器が九州の縄文文化に属していることから沖縄諸島以北には九州・奄美に住んでいた人々が何らかの理由で南下してきたものと考えられ、これらの人々が作り出した文化のことを「沖縄貝塚文化」と言っている。

因みに、日本民族の起源と流れについては、よく南方系か、北方系かと議論が盛んであるが、最近の遺伝子工学やDNA鑑定の発達によって日本人の起源が概ね明らかになりつつある。
一つの方向として、「日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その大元の起源はシベリアのバイカル湖畔と推定できる」と言う説がある。 
これは日本民族は北海道から沖縄に至るまで、こと遺伝子に関する限り驚くほど等質であること。日本人集団と幾分の相違を示すアイヌと沖縄琉球の人々とがまったく等質であるとのこと。 そして、日本人の等質性DNAを海外に辿ると朝鮮半島から北方型蒙古、さらには北方大陸からシベリアに到っているという見解なのである。つまり、人の流れはシベリヤ付近から次第に南下し北海道から琉球に到ったということなのである。

等質性のあった日本人は、弥生時代に到って変化を見せ始める・・。
縄文後期ともなると、大陸から稲作を含めた大陸文化(弥生文化)が押し寄せ、縄文文化を駆逐しながら全国に広まった。 例えば稲作は約200年足らずで北海道、沖縄を除く列島全土に広まったとされている。
古くは神話時代のヤマトタケルが九州南部から東北まで遠征し、熊襲、蝦夷を征伐する。
史実上の平安初期においては、かの「坂上田村麻呂」が東北の果てまで遠征に出かけて蝦夷を平定している。 これらはいずれも弥生文化の覇権のためであって、云わば、武装した稲作キャンペーン集団ともいえるのである。
このことは文化面は云うに及ばず、宗教面においても全国に一大革命を起こしたことになり、つまるところ旧来の日本人の姿まで変えてしまったともされている。
ところが、この様な弥生文化の駆逐は北海道と沖縄には全く及ばなかったのであり、本土と並立した弥生時代というのは両地域には存在しないと言われる。
従って、遠く離れた蝦夷・北海道のアイヌと琉球・沖縄の琉球人は共通した古代の日本民族の原型をいまでも見ることができるのである。
実際、琉球における古代の文化の流れは、日本の文化の影響を受けていたとも云われているが、当時の「大和政権」に服属していたという確証はないともいわれる。
琉球列島のうち宮古島と八重島を総称して先島と呼んでいるが、この地方の文化はフィリピンやインドネシアなどの南方文化の影響を受けているともいわれる。



【古琉球(12世紀〜16世紀】

長い貝塚時代の後琉球は農耕社会を基盤としたグスク時代(12〜15世紀)を迎える。
「グスク」とは、沖縄県を中心に奄美諸島から八重山諸島にかけて多数存在する古琉球(グスク)時代の遺跡で、地域により形態や呼び方に違いがある。
標準語では城(しろ)と訳されるがしかし、グスクの全てが軍事拠点として使われていたわけではなく、そのグスクの起源については様々な説があり主に「聖域説」、「集落説」、「城館説」に分けられるという。
ただ、琉球王国が三山時代を迎えると、グスクははっきりした城郭の意をもつようになり、王や按司( あじ:古琉球の階級の一つで諸侯に相当する。もと領主の意、後には一村を与えられた王家の近親をもいう。)の居城となった。

琉球三山時代(りゅうきゅうさんざんじだい)とは、古代琉球の時代区分の一つで、1322年ごろから1429年をいう。
沖縄本島では13世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には「三つの国」にまとまった。
南部の南山(山南:糸満市を中心とした地域)、中部の中山(居城・浦添グスク)、北部の北山(山北:今帰仁・なきじんグスクを本拠)であり、三つの王統が並立する時代が約100年続いた。 いずれも中国の「明帝国」に朝貢し交流を深めたが、その中から中山の尚巴志(しょう はし)氏が勢力を増し、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一し琉球王国が形成された。
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年に尚巴志王が南山を滅ぼし三山を統一してから1872年に琉球王国滅亡し、更にその後琉球藩になり1879年の明治政府による琉球処分まで、約450年間続いた琉球列島に存在した国家である。
琉球は、東南アジアの国々との交易を始め、東南アジアの中継貿易国としてその名をヨーロッパにも広めた。
ただ日本とは、それまで友好国として接してきたが、1591年日本、朝鮮、明の3カ国を支配する構想を持っていた豊臣秀吉の命として、琉球にも朝鮮侵略の軍役として7000人の兵糧米と10ヵ月分の名護屋城建設のための負担金を請求してきた。
琉球はその半分を調達したが、それがかえって立場を悪くしてしまう。 このことは時の権力者・島津氏の命を聞いたことで日本に侵略を与えるきっかけになったのである。
1609年3月、ついに江戸幕府は琉球に兵隊3000人と100隻あまりの軍船を琉球に差し向けた。 琉球軍は薩摩軍の近代兵器の前になすすべもなく4月には王府である首里城を開城した。
 (1993年、NHK大河ドラマ・『琉球の嵐』)

【本文関連情報


【近世琉球(16世紀〜18世紀)】

江戸幕府の圧力はますます強くなり、幕府は琉球が「異国」であることを主張するが薩摩はその「異国」である琉球との貿易は行われていた。
幕末の1853年、開国を要求するために日本へ来た米国のペリーは、日本との交渉の前に琉球に立ちよる。   米国は琉球が日本の支配下にあることを知り、日本との交渉が失敗した時には琉球を占領する計画だったのである。
だが、日本の開国に成功したペリーは再び琉球に戻り日本が「日米和親条約」を結んだのと同じく琉球も米国と「琉米修好条約」を結んでいる。
日本に明治政府が誕生すると廃藩置県により琉球は鹿児島県の管轄下におかれ、1872年(明治5年)、明治政府は「琉球藩の設置」をすすめ、更に琉球王国の解体を考えていた。
説得による解体(琉球処分)が無理だと知った政府は軍隊を持って琉球を鎮圧し、琉球藩に変わり沖縄県を設置した。
琉球処分後、日本の領土であることを明確化するため、琉球から沖縄に呼称が改められ、今日では一般化している。 
 「沖縄」とは、琉球に対する日本本土側の呼称なのである。


【近代沖縄19世紀〜20世紀)】

富国強兵を目指していた明治政府は1885年(明治31年)に沖縄にも徴兵制を適用した。
軍隊内では未開人と言う差別を込めて「琉球人」と呼ぶ差別があり、そのため国民として認められるためにも、戦場で戦う決意をした人も多かったという。

1942年(昭和17年)、ミッドウェー海戦で壊滅的打撃を受けた日本軍は沖縄に飛行場を作り始める。 これは沖縄が他国からの防波堤となることを意味しているものでもあった。
1944年(昭和19年)、日本政府は沖縄から本土へ10万人の疎開計画を緊急決定したが、同年8月22日、疎開者を含む1700人の乗った「対馬丸」が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没し、1500名が亡くなる事件も起きている。
同年10月米軍機B29による激しい空襲(10・10空襲)は早朝から午後4時まで行われ那覇市の90%を焼失、琉球王朝時代の貴重な文化遺産を数多く失う。

1945年(昭和20年)3月26日、米軍が遂に沖縄に上陸、遂に日本国内で唯一の地上戦となる「沖縄戦」が始まる。
使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで270万発、このほか、砲弾6万18発と手榴弾40万発、ロケット砲弾2万発、機関銃弾約3,000万発弱が発射された。 また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄では「鉄の雨や鉄の暴風」などと呼んでいる。
軍人軍属、島民合わせて死者は20万人を超え、当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており、少なくとも県民の約4人に1人が死亡したことになる。

広島と長崎に原爆を落とされた後の同年8月15日、日本国は「ポツダム宣言」を受諾し戦争が終了した。


【戦後の沖縄】

占領米国は強制的に土地を接収し安い賃貸契約を結び米軍への土地提供を求め、1953年(昭和28年)、には「土地収用令」により強制的に土地を収用する。
1960年から15年間のベトナム戦争では沖縄は米軍の出撃・後方支援基地となり、米国と沖縄の人々の間にどんどん溝が深まり、反戦・反基地運動なども高まる。


「施政権返還後(現在)」

1972年(昭和47年)5月15日、遂に沖縄住民の悲願であった「祖国復帰」の日がきまる。
本土復帰後の最初の知事選では「国の政策と直結した経済優先」を唱えるよりも「基地撤去による平和な島作り」を目指した候補が選ばれる結果となった。
本土との経済格差を解消するために「国体や海洋博」等のイベントも盛んになる。

琉球では昔から、「海の彼方のニライ・カナイ(琉球列島各地に伝わる他界概念のひとつ、理想郷の伝承)の世界には豊かな実りと幸せをもたらしてくれる理想がある。」と言う信仰がある。
だが、復帰後の現実は本土からの土地買い占め、物価高、そして何よりも自然環境の破壊が進んだことに大きなショックを受ける。

近年は日本への復帰を記念して1973年(昭和48)には「若夏国体」、1975年(昭和50)には「沖縄国際海洋博覧会」が開催された。 又、2000年(平成12)には「主要国首脳会議」(サミット)が行われた。
文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄から多数の歌手を輩出して全国的な人気を博し、その後も若手の女優、芸能人が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。
一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセントが沖縄に集中するという歪な構造となっている現実もある。 これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による沖縄県民への暴行事件などがしばしば起きている。
2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。
 
  

【本文関連情報


TOP頁(沖縄観光)   沖縄概要   沖縄歴史   港川人   首里城(琉球と中国の関係) 
 沖縄のサンゴ   那覇空港   マイ・ブログ(日本周遊)   国内世界遺産・鎌倉・湘南

【小生の旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
八ヶ岳(1966年)
南ア・北岳(1969年)
北ア・槍−穂高(1968年)
谷川岳(1967年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
上高地・明神(2008年)

「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」