「沖縄旅行と案内」12

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【 首里城 】
沖縄の最大の名所「首里城」を目指したが、既に日没となり辺りはスッカリ薄暗くなりつつあった。
首里城は、識名園の北方・凡そ4〜5kmの所であり、城址公園は確認できたが駐車場の所在ががどうしても判らず、夕方のラッシュ時にも重なって車が自由に走行できず仕方なく退散することになった。
ここで、過去に沖縄観光で訪問した際(1999年:平成11年9月)の記憶を辿って、「首里城」の概要を述べたい・・。

沖縄の観光地で首都・那覇にも近く、一番の定番的スポットが「首里城」であろう・・。
ところで、「首里」というのは沖縄本島の旧都の名称で、かつては首里市(市制施行前は首里区)として存在し、さらに以前は琉球王国の王都として栄えた由緒ある名称なのである。
現在も首里城を中心に、首里と付く行政施設や町名(頭に首里と付く町名)も多く、周辺は首里城をはじめとする歴史的遺産が多い。


首里城概念図


駐車場は公園西側に位置する公園管理センターの公営駐車場が首里城の入り口にも当たり便利でお勧めであろう・・、料金も300円前後で2時間駐車できるようだ。
順路通りに歩くと、先ず有名な「守礼門」に着く・・、門上部には「琉球は礼節を重んずる国である」という意味の「守礼之邦」と書かれた扁額が飾られている。

守礼門
守礼の門

最近余り見かけなくなったが、「二千円札」の表面に沖縄を代表する首里城の「守礼の門」が採用されていることは周知であろう。 何でも、西暦2000年の沖縄サミット開催を記念して発行(平成12年7月)されたらしい。ただ、二千円札の流通量がやや減少しているせいか、地元、沖縄の琉球銀行では流通増大に向け積極的に県内外にPRしているという。

守礼門の前には琉球衣装で正装した若き御嬢さん(ネーネー)が歓迎してくれる・・?と思ったが、実は観光客相手の写真屋さんのモデルであったが・・。
守礼門をすぎると、園比屋武御獄(スヌヒャンウタキ)石門の前を通り、歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門など重厚な城壁に囲まれた其々の華麗門を潜る、通路は緩い階段になっているが、そのわりに緩やかなので時間をかければお年寄りでも大丈夫。 間もなく「日影台」、「下之御庭」といわれる広い場所に出る・・、この辺りは既に相当な高所になり、見渡すと那覇の街並が一望できる。 

園比屋武御獄石門
園比屋武御獄石門
歓会門
歓会門
瑞泉門
瑞泉門

漏刻門


下之御庭の「奉神門」は、城の中心的な広場・御庭(うなー)に通ずる派手な朱塗りの門で入り口は三つあり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通るところで、左右は家来などが使ったらしい・・、この門から中が入城料・・?が必要な有料地区になる。

広福門の写真
広福門
奉神門
奉神門

入口をくぐって正面に華麗な朱塗りの「正殿」が見られる。龍の柱が左右にあり、堂々とした構えは中国の文化の息ずかい、雰囲気が充分に感じられるのである。

事実、首里城・正殿は中国の「紫禁城」に似せて造ったとされているが、これらの首里城の概要、内容は後ほど・・・。

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首里城正殿


見学コースはまず上の図、右端下側の建物・番所に入り、反時計回りに南殿、正殿1階、同2階、北殿の順にたどることになる。
正殿のハイライトは、二階にある琉球王の「御差床」(うさすが)といわれる玉座で、周囲を圧倒する。


 この「御差床」は、日本建築の須弥壇 (しゅみだん・寺院の本殿の本尊仏像を安置する壇)形式に似て、国王専用の御座所すなわち「玉座」(ぎょくざ)のことである。
 玉座の正面上方には大きく鮮明に描かれた「中山世土」(ちゅうざんせいど)の額縁が飾り付けてある。 中山世土とは、「この土地は何時の世までも琉球国王・中山の物」で有る事を永遠に保証する意味を現している。
 中山とは、琉球王朝の別称で通常は中山王府(ちゅうざんおうふ)とも云われ、首里城は中山城(ちゅうざんじょう)、琉球王は中山王(ちゅうざんおう)と呼ばれていた


正殿をそのまま進むと学習コーナーなどがあり、スクリーンに映る映像を見ながら、琉球や首里城の歴史を知る事ができる。
又、この周囲には、玉御殿(タマウドゥン)とか琉潭池、円鑑池、円覚寺跡、弁財天堂、 沖縄県立博物館など見所もいっぱいあり、全部見て回ると結構時間はかかりるので少なくとも半日程度の時間を取ってきて来たいものである。


  【首里城、琉球そして中国との関係・・、】

2000年12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、日本で11番目の世界遺産・文化遺産に登録されたことは、既に度々述べてきた。

この首里城は中世の1400年代には建てられたが、1453年、「志魯・布里(しろ・ふり)の乱」により焼失後再建された。
「志魯・布里の乱」とは、琉球王朝の第五代尚金福の死後、王位をめぐって世子・志魯と弟・布里が起こした争いで、この乱で当時の首里城は焼失し、志魯・布里の双方が傷付き斃れた。そのため王位は尚泰久(しょう たいきゅう:第六代国王)が継ぐ事となった。

その後、御城は1660年、1709年と火災、再建と繰り返し、1945年アメリカ軍の侵攻によりほとんどの部分が破壊された。 1970年代になると、城を再興しようという運動もはじまり、1992年に首里城公園(第一期開園部分)が開園し、そして他の城跡とともに、この一帯も世界遺産に指定されている。

琉球の「三山時代」については先に記したが・・、
現在の首里城の形となるものは十五世紀の初め、三山時代を統一した尚巴志(しょうはし)によって造られた。 琉球王の姓となる「尚」(尚巴志)は、中国皇帝から頂戴したもので、琉球全体の王として中国に認められた人物である。
尚巴志は、臣下の中国人に中国の王宮、紫禁城の建築法を学ばせて首里城を建造したといわれ、即ち、「紫」とは、天地をつかさどる天帝が住む宮殿、「禁」とは人民が近づくのを禁じることを意味するという。 首里城の正殿は、紫禁城の太和殿を手本にして作られ、首里城は紫禁城ともよばれていたともいう。

日本国でもそうだが国を統一した英雄は、自分の力を誇示するため巨大なお城や寺院を造った。 「尚巴志」もまた首里城をつくることによって、誰が琉球の世の主であるかを、国内外にしめしたと考えらる。 さらに首里城は、中国、朝鮮国、日本、東南アジアなどの諸外国に対して、首里城の持ち主が琉球国の代表者、尚巴志であることを証明するに充分な役割をもっていた。
ただ御城は、尚巴志の時代以前の古い伝説の天孫王統の頃に「グスク」の形で造られ存在していたとも言われる。

「グスク」については前にも述べたが・・、
琉球思想では、神を祭る岩場である「城」(グスク)としての意味合いもあり、神聖な場所としての玉城グスクなど、目的によっていろいろな形に分かれ、単なる戦いのための建物ではないともいう。
日本国内の城は、戦のために造られ城は町の中心にあるが、沖縄の城・グスクは、首里城をはじめ小高い丘の上につくられているのが普通であると・・。

琉球のグスクと本土の城と比べると、大きな違いが三つあるという。
一つめは、グスクには必ず地域の神様をまつる「イビ」という場所がある。
二つめは、グスクは海上から見える丘の上にあることで、これは、日本の船などに水と食糧など与える代わりに、相手から「鉄」を譲ってもらうためという。鉄は、武器と農具の材料として、豪族・按司たちがほしがる貴重品であり、グスクと、港はワンセットになっていたともいう。
三つ目は、日本の城が直線の石垣つくりに対して、グスクの石垣は曲線で作られている。高い丘の上に吹きつける台風の風力を分散させるために、抵抗が大きい直線より、風を吹き分ける曲線を選んだわけだと・・。 曲線は美しくみせるためではなく、自然とのたたかいの結果に生まれた「チナーンチュ」の知恵だったといえる。 

気がつけば、先般訪れた今帰仁城(なきじん)やこの首里城、そして、本島中部の勝連半島にある勝連城(かつれん)の城壁はうねる様な曲線で覆われているのが判る。



首里城曲線の城壁(模型)

そして、当時の琉球と中国との関係であるが・・、
14世紀半、琉球は中国の皇帝から琉球国王を認めてもらう冊封国(さくほうこく:皇帝、天子から承認された国)として、中国と交流をはじめる。当時、モンゴル、ベトナム、タイ、朝鮮国、日本、琉球国など、アジアの国々も中国の冊封体制のもとで、リーダーの中国に貢ぎ物をとどける「朝貢貿易」をおこなっていた。
その朝貢品にたいして中国は、その数倍も価値のある陶器、鉄器や、高級な絹織物、などを「下賜品」として冊封国に授けます。 琉球国は、そのほかにも、200人乗りの「進貢船(しんこうせん)」とよばれた中国の大船を毎年のように与えられたという。
特に、北京における琉球王国は、他の外国が禁止されている商いも許され、さらに、明王朝が催す公式行事の時にも、琉球の使いは上座にすわる扱いを受けていたという。

一方、琉球の新しい国王即位の「冊封の儀式」を行うため、明王朝は冊封使(さくほうし)を琉球に遣わすときは、3〜500にものぼる大勢の使節団を派遣したという。 しかも大臣クラスが出席し、儀式が終わった後も半年ほど滞在し、その間に中国の文化、文明を琉球に伝えたという。

首里城13
冊封の儀式(模型)


日本は中国の25分の1、琉球は中国の4175分の1の面積しかなく、本来なら忽ちにして属国になるのが普通であったが・・?。 
なぜ、こんな小国・琉球に命をかけてまで冊封使達はやって来たのか・・、それは、琉球を中国が必要としていたからといわれる。
中国への貢ぎ物の中には、かならず「硫黄」が含まれていた。 中国では良質の硫黄がとれず、琉球の硫黄は炭、硝石とまぜると火薬になり、火薬は、戦乱の続く中国では最新兵器として、皇帝が常に必要とする品であったと・・。
首里城が、中国の紫禁城に似せて造営され、何かの行事があるたびに首里城内において盛大な儀式が行われたことが想像できる。

中国特使として、招待、派遣された冊封使達は儀式が終わると、すぐ近くの「識名園」にて寛いだことだろう・・。この時、園内に設けられた「勧耕台」といわれる展望台では、九州並の巨大な島「大琉球」をイメージさせたのかもしれない・・。

1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われたという。

1930年代に大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼し、戦後の跡地は琉球大学のキャンパスとなった。 その後、園比屋武御嶽石門や守礼門が復元され、更に、主城である「首里城」の復元が国家事業として決定するにに及んで大学は移転し、着工後3年経った1992年に完成している。 復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしているといわれる。
その後、2000年12月には首里城跡が世界遺産に登録されている。   次頁

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