「沖縄旅行と案内」10

沖縄紀行Part10:(おきなわワールド、旧海軍司令部壕
沖縄紀行Part11:(漫湖、世界遺産・識名園
 沖縄概要  沖縄歴史  港川人  首里城(琉球と中国の関係)  沖縄のサンゴ  那覇空港   
日本一周記   マイ・ホームページ   マイ・ブログ(日本周遊)   国内世界遺産・鎌倉・湘南

【本文関連情報



【おきなわワールド文化王国】
 
 
沖縄北部の主要行楽地である「海洋博公園」に対するのが、こちら沖縄南部の観光施設・「おきなわワールド文化王国」であろう。
その内、なんと言っても楽しみなのが我が国でも有数と言われる鍾乳洞の『玉泉洞』であろう・・。

多くの人で賑わっているド派手な入場施設から、すぐ左手に玉泉洞の入口がある。
下り坂をしばらく下りると、鍾乳石や石筍がいっぱいの鍾乳洞になる。
先ずはジックリご覧戴きたい・・。

入場門よりの案内

東洋一洞」・・?

「昇龍の瞳」 針地獄・・?
地底の渓流 上さん 洞内の浴槽・・?
天地合体 「黄金の盃」 鍾乳道
張出鍾乳、どちらが先・・? 「岩窟王」
   

女性が羨むような形ですね・・!!

こちらは駐車場の奥にある「珍々洞」という・・。
左手の小さな明かりのところに赤いボタンを押すと周りが明るくなり「珍々」のその姿を現す。
長さは3メートルほどで、その太さは大人が手を回しても届かないほどだとか・・!、珍々洞に触れながら拝むと、子宝に恵まれると言うことで、毎年多くの方がここを訪れるという。
実は、洞窟の入り口付近には満々洞という岩の割れ目もあるのですが、こちらは落石があったらしく近づくことが出来ないという。
沖縄、万歳である・・!!。


地底湖をさまよう「うなぎ」・・、目は有るのかな・・?


地球年齢的・年齢のサンゴ礁から生まれた鍾乳洞である「玉泉洞」は、「おきなわワールド文化王国」の主役でもある。

前半は、鍾乳石や石筍を中心とした洞窟であったが、後半は地底の渓流や水溜り、池を配したバリエーションが楽しめる。
洞内は全長5kmもある長大なものであるというが、そのうち凡そ900mを観光用として公開しているらしい。 それでも洞内を全部をゆっくり見てまわると少なくとも1時間は取りたいところであろう・・。
無数の大石筍が林立する「東洋一洞」、「銀柱」、「昇龍の瞳」、「岩窟王」、「龍神の池」や黄金色に輝く「黄金の盃」は幻想的な光景である。 
変わったところでは「化石の広場」など、30万年の年月が作り上げたという壮大な造形美を堪能することができた・・。


「おきなわワールド文化王国」は、玉泉洞の他にも熱帯フルーツ園、ハブ博物公園、エイサーが実演されるエイサー広場、築100年以上の古い民家を移築し、町並みを再現した琉球王国城下町、沖縄を代表する伝統工芸の数々が体験できる琉球ガラス王国工房等々・・。

沢山の見所が多いが、先の予定のある我等にとっては一先ず退場することにした。

【本文関連情報


【旧海軍司令部壕】
次に、北上しながら豊見城方面を目指した。
目的地は、「旧海軍司令部壕」という元の海軍施設であったが・・、

那覇市と豊見城市の境界に位置しておるようだが、カーナビで追っていっても、かなり判りにくい所であった。 
それは閑静な住宅地に囲まれた高台の一角に立地していて、近隣の那覇市街が一望できる場所であった。この地に太平洋戦争末期、旧日本軍の司令部が置かれ、縦横に掘り巡らされた広大な壕において、多数の将兵が玉砕しているのである。

「海軍壕戦没者慰霊之塔」の横に円形の透明なサッパリした建物がある、だがここは何も無いエントランスに過ぎなかった。 ここからエレベーターで下ると始めて「壕」の入り口に達する。

受付より地下に向かって真っ直ぐに伸びた昇降階段の階段があり、冷たい風が吹き上がって来る中に靴音が響き、暗黒の闇に吸い込まれそうな感じで降りていく。
コンクリートで固められたドーム状の通路が不気味に延びていて、通路横の各所には当時の兵員たちの部屋や設備施設が設えてあった。

「下士官兵員室」は、彼らが十分に休息を取れるようなスペースは無く、地下水に膝まで浸かりながら、立ったままで寝ていたと言われている。彼らの暗い目つきや暗闇に響き渡るうめき声が聞こえてくるようである。

又、「司令官室」は、大田司令官が最期に爆死を遂げた部屋で、爆風で砕けた壁の跡が生々しく残っている。その白壁には、大田司令官の辞世の句が鮮やかに描かれたままで、彼の無念さが心を締め付ける。
戦争と言う無残さ・・!!、沖縄戦の悲惨さ・・が壕の中から伝わってくるようである・・!。

「ビジターセンター」、ここからエレベーターで壕入り口へ 壕内の通路

提供者に感謝します)
「下士官兵員室」、自決した血の跡・・? 壕を掘削した「ツルハシ」
司令官室 壕の出口側


1944年(昭和19年)、太平洋戦争において南西諸島の領土各島(サイパン島、テニアン島、グアム島など)では、日本軍の敗色が濃厚となり戦線が後退したため、最前線となった沖縄本島の軍備が強化されることになった。
沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見おろす標高74メートルの丘が選定された。
司令部壕は1944年8月10日に着工され同年12月に完成している。

掘削工事は、海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、殆どの工事は「ツルハシ」などを用いた手作業で行われたという。 
海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず、工事は軍隊の手のみによって行われている。
全長450mの壕に4,000名もの兵士が収容されていたらしい。

沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦である。 これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、日本軍は惨憺たる敗北の結果、組織的な戦闘は6月23日に終了した。

海軍司令部壕では6月6日、大田司令官が『 沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを 』という電文を発信している。 
それは、沖縄国民が戦闘で悲惨な目にあっているので、後々、県民に配慮してあげて欲しいという内容のものだった。その後の6月13日、大田司令官以下、多くの将兵が壕内で自決した。

この壕はしばらく放置されていたが、昭和45年、整備されて、見学施設として公開された。


  【 沖縄戦とは・・?】
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦で、3月下旬から終戦の8月までの戦いをいう。
正確には1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。

米軍本隊は沖縄本島・宜野湾の読谷、北谷の海岸に上陸開始した。 宜野湾の海域は米軍の艦船で埋め尽くされ、黒々としていたという。 
地上戦闘部隊18万3千、艦船約3千、補給部隊を合わせると54万の大部隊であった。

第32軍 司令官 「牛島満」中将以下日本陸軍は、浦添丘陵に主力部隊を配置して米軍を待ち受けた。
日本軍は地下陣地から迫撃砲や機関銃で応戦し、夜になると闇にまぎれて肉弾攻撃を行う。 
この血で血を洗う激しい攻防戦は、米軍の上陸地・北谷から首里城までの10キロを進むのにおよそ50日間繰り広げられ、5月下旬まで続いた。
この戦場で日本軍の戦死者約6万4千名、 全兵力の八割を失い壊滅した。

因みに、日本軍の「第32軍司令部壕」は首里城内の守礼門の近く、首里城と弁財天堂との間に在り、現在はコンクリートの残骸として旧壕の痕跡だけが残っている。 案内板も説明板も無く、戦闘による落盤の為、入口からは入る事ができないといい、草場の中に埋もれようとしている。

浦添丘陵に残る「嘉数の塔」(かかずのとう:現、宜野湾市)の碑文は次のように伝えている・・、
『 物量を誇るアメリカ軍の大軍、宜野湾に上陸す。 迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣勢にして唯日夜肉弾、また肉弾。ここ嘉数の丘に玉砕す 』


追い詰められた日本陸軍はあくまで持久戦で臨む作戦をたて、ひとまず本島南端の喜屋武半島まで撤退した。
この時、海軍部隊は南部への撤退作戦に同調せず、陸戦隊1万名が小碌飛行場(那覇飛行場)に立てこもって米軍を迎え撃ち、6月3日から10日間激戦の末、大田司令官以下将兵は海軍司令壕で自決し玉砕している。

最後の決戦とされた喜屋武半島では、まさに地獄絵図さながらであった。
日本軍司令部が移った「摩文仁の丘」(まぶに)は、丘陵全体が砲弾と炎につつまれ、まさに「鉄の暴風」吹き荒れる丘となった。
6月23日、司令部壕に立て篭もる将兵が最後の切り込み攻撃をかけ、ほぼ全員玉砕し、こうして沖縄の戦いは終わった。

日本側の死者・行方不明者は18万8000人で、沖縄県出身者が12万2000人、そのうち9万4000人が民間人である。 負傷者数は不明。
アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2500人で、負傷者7万2000。
ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘もある。

1945年3月末の時点、沖縄戦が始まる直前での内地本土は、ほぼ廃墟と化していて、既にに敗北していたとされる。 
もし半年前(終戦の日から)のこの時、終戦を迎えていたら沖縄の悲劇は起こらなかったのである・・!!。

現在、「摩文仁の丘」の沖縄戦終焉の地は、緑いっぱいの平和祈念公園になっていて、沖縄戦犠牲者の「平和の楚」をはじめ、戦争の悲惨さを物語る遺品や戦禍の中での人々の生活、体験談を紹介する資料館等がある。


やや陰鬱な気持ちになって壕から外へ出ると、過去に壕内で起った悲劇が嘘の様に、夕刻の斜めに射す光が眩しいくらいである。
気が付くと、あちこちに沖縄特有の墓が見えている、又、中央には階段も設えている程の立派な「慰霊碑」が鎮座していて、碑文には『海軍戦没者慰霊の碑』と刻してあった。
丁度、高校生らしき或るグループが「慰霊碑」に向かって正装し、経本を片手にお経を読みながら合掌していたのが印象的であった。

我等はこの後、この小山を下り那覇市内へ向かう・・、次の行き先は「識名園」である。

【本文関連情報


TOP頁(沖縄観光)  次頁  沖縄概要  沖縄歴史  港川人  首里城(琉球と中国の関係) 
 沖縄のサンゴ   那覇空港   マイ・ブログ(日本周遊)   国内世界遺産・鎌倉・湘南 

【小生の旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
八ヶ岳(1966年)
南ア・北岳(1969年)
北ア・槍−穂高(1968年)
谷川岳(1967年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
上高地・明神(2008年)

「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」