「沖縄旅行と案内」4
沖縄紀行Part4:(今帰仁城址、古宇利島、ヒルギ林)    
沖縄紀行Part5:ネオパーク、名護公園、パイナップルパーク、万座毛
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 【今帰仁城址】 

公園から北方の沿岸に向かい、5,6kmいった今帰仁村の「今帰仁城址」へ向かった。

丘の上には信じられないような巨大な石垣が延々と連なっている。 正面入り口には右に「史跡・今帰仁城址」と石柱で、左に新装な刻印で「世界遺産・・・・・」として八箇所の遺産を紹介している・・、そうなんである、沖縄には世界遺産が八つも有ったんである。 その内の一つがこの巨大な今帰仁城(なきじんじょう)なのだ・・。

今帰仁城の表示Nakijin-joと書かれている
今帰仁城址入り口にある世界遺産の碑


ところで、「今帰仁」:「なきじん」という地名は文字も発音もずいぶん変わっていて通常ならならとても読めそうにない地名である。 
小生もなかなか読めなくて、来る途中息子に聞いたり、道路標識のローマ字表記でnakijinと記してあるので納得したりしたが、それでもすぐ忘れてしまう始末であった。
何故、「今帰仁」を「なきじん」と読むか・・?、又、何故、「なきじん」で「今帰仁」と書くのか・・?。 昔は「いまきじん」だったり「みやきせん」だったりと様々に発音されていた時期もあったようだが・・。

北海道のややこしい地名については、大半がアイヌ語から和語にされたらしいが、この時、アイヌ語の発音を聞き、当て字をしたのが「音訳」、アイヌ語の意味から付けたのが「訓訳」とされている。
琉球沖縄も同様で江戸期末期、明治期に「琉球処分」(日本国に併合)にあい、この時に琉球語が和名の漢字に置き換えられたとも言われている。 それにしても琉球語の「なきじん」が何故「今帰仁」になったのか・・?やはり疑問は残る。 ネットでも方々調べたが鮮明な解決はなかった。

城址は東側を川、西側を谷、南側を崖に囲まれた丘の上にあり、1500mにおよぶ見事な石垣城壁に囲まれている。

nakizin7.jpg
万里の長城のような今帰仁城・城壁
琉球・沖縄の城壁は曲線になっている場合が多い、何故か・・?
(巻末に答えが出てきます・・!!)

今帰仁城は琉球王国の城・・、沖縄では城と書いてグスクと読む。
王府・「首里城」に匹敵する面積をもち、グスクのなかでは最大級の規模を誇っているが、実は、誰が造りはじめたのかは全く判っていないという・・、築城は13世紀頃(日本の鎌倉期)といわれている。 
琉球に統一王朝が樹立される直前の三山時代(1322年ごろから1429年で北山・中山・南山の時代)の北山を治めた王の居城であり、当時は三王朝とも中国の明帝国に献上物を送りながらも交易、交流を深め貿易も盛んに行われていたようである。
北山からは、中国製の陶磁器が完全な形で数多く出土し、今帰仁城の規模等から北山王の強大な勢力が伺える。 しかし、攀安知(はんあち)王の頃、自身の武力に頼り栄華を欲しいままにしていたが長くは続かず、やがて統一を目指す尚巴志(しょうはし)王により攻め滅ぼされてしまう。

城そのものは三山時代から薩摩藩の琉球侵攻まで使用されていたらしいが、侵攻後は放棄され地元の聖地とされていたらしい。
聖地といえば、琉球時代は国王が神職(ノロと称した)を任命し、国家の安全、五穀豊穣、航海安全などの祈願をしたようで、つまり「祭政一致」の王国だったようである。 城内には神の降り立つウタキ(御嶽:沖縄ではこのような地域が数箇所あり神が降り立った神聖な地とされている)という神域も在り、神職以外の者が入ることを禁じた男子禁制の地となっていた。
現在でも信仰の拠点として大切に受け継がれているとのこと。

因みに、今帰仁城には一昔前までは鳥居があり・・、鳥居の在った場所は現在の世界遺産の表示の辺りったと云われる。 ただ、鳥居が示す神と琉球の神々とは全く異質のものであった。 それは、日本政府によって今帰仁城を神社にしようという計画があったらしく、この鳥居は第2次大戦を目前にした、皇民化教育による名残ものだったらしい・・。
城址は、今は公園になっている。

七、五、三の奇数の階段が城門まで、緩やかな参道が一直線に延びている。
拝みに来る人や見学者のために参道として昭和期に造られたらしい。城壁の上まで登ると海も見えて眺めがよろしい。 晴れた日には遠く東シナ海から伊是名島までを見渡せる。
ここは又、桜の名所として有名らしい。この桜は寒緋桜(かんひざくら)の名所としても有名です。面白いのは桜前線が北から南に下がるという。 気が付くと、すでに付近の桜がチラホラ咲きかけている。
又、グスクを訪れる際には、「ハブ」に十分ご注意をと地元のひとは注意を呼びかけている・・。時に石垣の隙間に潜んでたりしているという・・。

「今帰仁城址」を後にした・・、 

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 【古宇利島と大橋】 

来た道を一旦戻り、国道505より東の方角を目指す。
国道は、このまま進むとやがて国道58の名護バイパスより名護に戻る。 その途中に名護動植物公園(通称・ネオパーク)があるので、孫達のためにそちらへ向かおうとした・・、がお疲れの様子でスッカリ車中で爆睡中である。 
あらためて相談の結果このまま向かって「古宇利島」へ向かうことにした。

町中に、「北山」という施設や地名があって、昔の王朝の名称がも残っているのが良い・・。無論、ここは今帰仁村の町域であるので、「今帰仁」という施設や地名も多い・・。

村役場(今帰仁)のほぼ1km手前、国道左側より斜めに分岐する松並木の広い未舗装の道が有る。
一見あまり整備されていない神社の参道にも見るが、ここは琉球王朝時代からそのままの形で残る馬場(ばんば:競馬場)の跡地で、「今帰仁村仲原馬場」という史跡になっている。
沖縄の各地にあった馬場の1つで、農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬などが行はれたところである。 他の馬場は沖縄戦で破壊されてしまい、昔から有名なこの仲原馬場だけが往時の面影を残しているという。


今帰仁村の役場から町並みを過ぎ、間もなくすると羽地内海(はねじ)と呼ばれる湾に面した風光道に出る。
湾の向こうに望めるのは一見陸続きにも見えるが、れっきとした島で「屋我地島」(やがじ)といい、このため内海は湖のように静かである。
この島の更に向こう側に目的地の「古宇利島」」がある。

湾岸国道は、やがて再び58号線に合流し、ほどなく左折すると屋我地島である。
一走りで、次の古宇利島へ向かう・・、屋我地島からはまっすぐ伸びた真新しい舗装の橋を進む。 
それにしても立派な橋が架かっている。

島は漁業と農業が主で人口340人足らず、周囲8kmで面積は3平方kmの皿を伏せたような丸型の島である。
島の人には申し訳ないが周囲数kmの小さな島、集落も疎らなこの島に何年もの歳月と、何百億かの工費を注ぎ込んだことへの疑問・・?。偶々現在、国会で「ガソリン暫定税」や「道路特定財源」など道路に関する諸問題で与野党紛糾しているらしいが・・、果たしてこの橋は誰の為の、何の為の橋なのであろうか・・??、些か疑問符を感じたのであるが・・。 これも沖縄県という、一種特殊性の為でもあろうか・・?。

しかし、橋下に見える海が美しいエメラルド色に変わっていたのに気が付き空想はいつしか消滅した。
島に着くと、左手に大きな公園が出来ていた、一休みしながら立派な橋に見入る・・。


沖縄特有の墓地を背景に「古宇利島橋」

 
島の外周を走っていて気が付いたが、道路両側は広大なサトウキビ畑が広がる。そう、古宇利島ではサトウキビが主たる農業で、丁度今頃が収穫時期であろう・・。  
いま、島の人々はサトウキビ刈に余念が無い。 
車を止めて小話をしながら少量戴いてしまった。 齧るとホンノリ甘い味がする、黒糖の材料なのである。

思えば、こちらへ来る途中、那覇方面へ向かって古木、薪・・?を積んだ何台かの大型トラックと擦れ違った。あれはサトウキビだったのである、今になって気が付いた次第である。
 


島の集落の中に向かう道は所々に「自動車進入禁止」の看板が見られる。
新しい橋が出来て大勢の観光客が押し寄せ、結果、自分達の生活の場に入り込んでほしくないと思ってのことだろう・・?。 
それもいいが、高価な橋で生活の利便性を確保した今、島民挙って歓迎するのも一つの手だと思うが、それとも過去に何か問題でも起きたかな・・?、美しい島に、やや水を指された感じであった。

帰路、大橋から観る屋我地地区の島々が景観を造っている、この辺り一帯は「愛楽園」といって昔のライ患者の療養所だったとか・・。
ちなみに古宇利島は今帰仁村だが、屋我地島は名護市に所属するらしい。


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 【ヒルギ林】 


さて次に向かうのは東村方面・・、つまり西海岸から東海岸へ到るのである。
沖縄県道14号線で本島を横断して慶佐次湾へ向かう。
「ヒルギ林」と称して慶佐次湾のマングローブ林のことで、沖縄本島では最も広くマングローブ植物を見ることができるところである。

慶佐次湾に流れ出る慶佐次川河口に架かる橋の袂から、早速そのタコ足のように地面に吸い付くマングローブ林が見渡せる。 時折、TVの映像などでお馴染みであるが、実物は全くの初めてで、興味深々である。
橋の袂のすぐ横には見学用の駐車場と広い園地になっていて園地から川岸、マングローブ林に沿って観察用、見物用の桟橋が渡してある。 夕刻とあって他の客は無く、悠々と観察できた。
今は干潮期なのであろう、干上がった砂地には無数の穴があって、特有のマングローブカニ(シオマネキ類やコメツキガニなど)が出入りしている。

一般にこのマングローブ林を「ヒルギ林」と称している。ヒルギは「蛭木・紅樹とも書き、ヒルギ科でオヒルギ・メヒルギ・オオバヒルギなどの種類がある、総称してマングローブと称しているようだ。常緑の低木または高木で呼吸根をもち、耐塩性など特異な生理的・形態的特徴がある。 一帯は、1972年に沖縄の祖国復帰と同時に国の天然記念物に指定されている。


慶佐次湾河口のマングローブ林(ヒルギ林)

  【カヌチャベイリゾート】 

帰路の途中、国道は「カヌチャベイリゾート」という巨大ホテルの敷地内を横断していた。
大浦湾に面して80万坪:東京ドーム60個分という広大な敷地を誇る県内No.1のビッグ・リゾートだという。薄暗くなってきた庭園には点々と「イルミネーション」が光り輝きだしていた。 
何でも、「カヌチャスターダストファンタジア2007−2008」と名うって、沖縄でも有数のイルミネーション・スポットらしい。
立寄って見物したが、屋敷が余りに広大なせいか、はたまた関東周辺のイルミネーションを見慣れたせいか、今一豪華さと迫力に欠けていたのは否めない・・?。

それでも、真冬のきらめきを見せる不思議な国が出現している。
ガーデンプール横に立つメイン会場には高さ13mのマザーツリーをはじめ、約100万球といわれるイルミネーションが鮮やかに彩りを添え、南国イルミネーションの世界を演出していた。



そろそろ夕餉の時間なので名護市街へ向かった。
名護市大東の少し繁華街から離れた場所にあり偶然見つけたもので、『新風料理 風 kaji』という和風居酒屋に立寄った。 
座敷でユッタリ腰を落ち着け、今日の疲れを癒しながら冷たい「生」を流し込む。 地元食材を品のある盛り付けで目を楽しませ、値段もマズマズで皆さん身も腹も満足したところで帰路についた。   次頁

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